HOMEフォーラム > 聖地めぐり > 熊野 フォーラム

ルルド 鞍馬山 バリ島 出雲大社 伊勢神宮 チベット セント・デヴィッズ 熊野 恐山

熊野


本宮

熊野詣の参拝地は、本宮、新宮、那智山という熊野三山あるいは熊野三社にある3社1寺で、それぞれ個別の自然崇拝に起源を由来しますが、しだいに神仏習合の影響をうけて熊野三所権現として信仰されるようになりました。熊野三社は、熊野川の中流にある熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)を筆頭に、下流の河口部にある熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)、そして、那智山にある熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)及び那智山青岸渡寺(なちさんせいがんとじ)ですが、それらは熊野参詣道(中辺路)によって相互に結ばれています。熊野三山は、家都美御子神(けつみみこのかみ)・牟須美神(むすみのかみ)・速玉之神(はやたまのかみ)の3神を共に祀っていますが、それぞれの主神は異なっていて、那智大社の主神は熊野牟須美大神(くまのむすみのおおかみ)、速玉大社の主神は御子速玉之神(みこはやたまのかみ)と熊野牟須美大神、本宮大社の主神は、家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)です。

古都の京都や奈良の真南に位置する熊野は、紀伊半島の南、和歌山から三重にかけての一帯の総称です。朝霧が立つその深山一帯は、多雨地域で森林資源に富み、滝、渓谷、奇岩が多数点在しています。多様な動植物が生息している原生林に覆われているこの熊野山地は、紀伊の他の山々とともに神話の時代から神々が鎮座する特別な霊域と考えられて来ました。その後、日本に伝来した仏教も、紀伊山地の山々に阿弥陀仏や観音菩薩の浄土を見て山岳仏教が生まれ、その結果、紀伊山地には、吉野と大峯、熊野三山、そして、高野山の三つの山岳霊場とそこに至る参詣道が発達し、都をはじめ全国から多くの人が訪れようになり、出雲大社、伊勢神宮などと並ぶ重要な聖地となり、日本の宗教の発展に大きな影響を及ぼしました。熊野三山の主神と熊野の自然の神霊は、これまで身分の違いや男女の別など問わず、誰でも受け入れてきましたが、今日でも、熊野を訪れる人を優しく包容してくれます。

新宮

那智大社


6世紀に日本に伝来された仏教は、その後、次第に神道と融和し、平安後期には本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想が生まれます。これは、神は仏が人の救済のためにとっている仮の姿であり、神の本当の正体(本地)は仏であるという考え方で、元の仏が本地で、仏が神という仮の姿をとることを垂迹といいます。また、その時、現れた神を権現といいます。平安末期、熊野三山の12社殿に祀られた神々は、熊野十二所権現と呼ばれ、本体はすべて仏であると考えら、この本地垂迹説によって熊野はさらに信仰を集め、ますます繁栄しました。このように、明治の神仏分離以前、熊野では神仏は習合していました。熊野の仏様達は、過去世・現世・来世の三世にわたって人々を救い、熊野速玉大神は過去世の救済と病の治癒を司る薬師如来、熊野牟須美大神は現世利益を授ける千手観音、家津美御子大神は来世の加護を与える阿弥陀如来が本地です。

また、熊野は、この山地を浄土とするに飽きたらず、南方洋上に観音菩薩の浄土「補陀落山」(ふだらくさん)を求め、死を覚悟して漕ぎ出す「補陀落渡海」信仰で知られた地域でもあり、熊野川下流の海岸近くに位置する補陀洛山寺では、9世紀から18世紀までの間に二十数回の「補陀落渡海」が試みられたと伝えられていますが、いまでも小舟に乗って観音浄土・補陀落山を目指す僧侶達の激しい情熱と決心が感じられます。また、この寺の本尊も千手観音で、青岸渡寺と同様の開基伝承を持ちます。

平安から鎌倉にかけて山岳仏教の山伏たちは、皇族と貴族に熊野信仰を広め、上皇と女院の「熊野御幸」による熊野全盛期を生み、南北朝から室町にかけては、時衆の念仏聖や熊野比丘尼たちが庶民に熊野信仰を広め、庶民の「蟻の熊野詣」による熊野全盛期を生みました。江戸時代、紀州藩の宗教政策のもとに熊野三山は神道化され、熊野山伏や念仏聖、熊野比丘尼たちの活動は弾圧され、その結果、熊野信仰は衰微していきます。そして、明治に入ると元年(1868年 )に神仏分離令が施行され、これにより熊野を詣でる人は激減しました。

熊野古道は、熊野詣でのために作られた参詣道(さんけいみち)で、この道を歩くことが霊域へ通じるための行(ぎょう)とされていました。 京の都から熊野までの長い道中沿線には、熊野権現の御子神を祀る小さな王子社が区間ごとにあって、宿場や休憩所(王子)となっていました。その数の多さから熊野九十九王子と呼ばれていて、 中でも格式の高い五体王子と呼ばれる5つの王子社跡は、参拝者の人気を呼んでいます。

熊野本宮大社は熊野三山の中心であり、古くは「熊野坐(くまのにいます)神社」という名で呼ばれ、熊野御幸に熱心だった後白河上皇(1127~1189)は、34回も本宮を訪れていて、ここは全国に3000社以上ある熊野神社の総本宮です。交通の便はそれほど良くなく、民営のバスでも来られますが、レンタカーか自家用車で来るのが一番便利です。

鳥居

大きな八咫烏(やたがらす)の幟がたなびく鳥居の前に立つと、心が静粛になり、突然、自分が神域に入ったことに気がつきます。鳥居をくぐり、両脇に「熊野大権現」と書かれた奉納幟を見ながら杉木立に挟まれた129段の石段を登りきると神門が現れ、神門を抜けると、出雲大社のような檜皮葺きの古色蒼然とした社殿が突然現れます。向かって左から第一殿と第二殿の相殿(あいどの)、第三殿、第四殿で、相殿の前に礼殿があり、中央の第三殿が本社で証誠殿(しょうじょうでん)ともいい、平安初期には「熊野にいらっしゃる神」という意味の熊野坐神(くまのにいますかみ)と呼ばれていた主神の家都美御子大神が祀られています。また、第一殿には、熊野牟須美神と事解之男神(ことさかのおのかみ)が、第二殿には、御子速玉之神と伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」が祀られていて、第四殿は、天照大神が祀られています。もともとこれらの社殿は、熊野川の中洲に鎮座していましたが、1889年の熊野川の水害に被災した後、流失を免れた社殿三棟を1891年に現在地に移築し、再建したものです。境内には、各殿のエネルギーが混じっていて、全体的に神聖な波動が漂っていますが、それぞれの殿の前に立ってそれぞれの神に挨拶するとそれぞれ異なる反応があり、姿は見えませんが,静けさの中に偉大な光と優しい愛の波動または力強い波動などを感じるに違いありません。

熊野速玉大社は、新宮とも呼ばれ、本宮から熊野川の河口、新宮の町の千穂ヶ峰の北東麓に鎮座していて、JR新宮駅から徒歩で15分。もともとは、速玉大社から南へ1~2km行った千穂ヶ峰の東南端の神倉山に祀られていましたが、のちに現在地に遷され、そのため神倉山の古宮に対し、ここを新宮と呼ぶようになりました。鮮やかな朱塗りの鳥居をくぐって参道を進むと、摂末社と神宝館が現れ、やがて樹齢1000年ほどと推測される梛(なぎ)の大樹が枝を広げて現れ、参拝者を歓迎してくれます。この梛は、平安末期に熊野三山造営奉行を務めた平重盛が植えたと伝えられていますが、梛としては日本最大で、国の天然記念物に指定されています。梛は熊野権現の御神木で、その葉は魔除けの効果があり、帰りの道中を守護してくれるものと信じられていました。魔除けの力があるかどうかは分かりませんが、今でも、この神木からは神聖エネルギーが放たれていて、旅人に太古の物語を話しかけてきます。

神門と瑞垣を超えると、昭和に再建された色鮮やかな朱塗りの社殿が、横に並んで5棟現れます。向かって左から第一殿、第二殿、摂社の奥御前三神殿、第三殿・第四殿と神倉宮の三社相殿(あいどの)、第五殿から第十二殿までの八社相殿の5棟です。向かって左の礼殿の前には、第一本社と第二本社が並んでいて、第一本社は那智の主神の熊野牟須美大神を祀っていて、第二本社では、熊野速玉大神を祀っています。新宮では熊野速玉大神・熊野牟須美大神の2柱を主神としていますが、速玉が男神で須美が女神でるため、夫婦神と信じられていた時もあったようで、昔は一社殿に祀られていました。神門入って正面の社殿を「上三殿」といい、第三殿の証誠殿には家都美御子命と国常立尊、第四殿の若宮には天照皇大神、3社相殿の神倉宮には、旧宮の神倉山の祭神である高倉下命(たかくらじのみこと)が祀られています。熊野速玉大社の社殿は、1951年に再建されましたが、背後の権現山と祭礼の場である御船島と御旅所も速玉大社に含まれます。

神倉神社

神倉神社は熊野速玉大社の飛地境内摂社です。新宮市西端の権現山は、古代の神話に登場する天磐楯とみなされていて、その東南端を神倉山といい、その中腹に祭神が降臨した所とされる神倉神社の社殿があり、熊野速玉大社から登り口までは、徒歩で15分ほどかかります。神体の巨岩のゴトビキ岩(ゴトヒキとはヒキ蛙という意味)の周辺からは、銅鐸や経塚が多数発見されていて、この神倉神社で熾した神火を松明に移し、急勾配の石段でできた参道を駈け下る熊野御燈祭には多くの信者や観光客が駆けつけ、原始信仰を受け継ぐ祭礼として和歌山県の無形民俗文化財に指定されています。登り口の正面に見えるのは猿田彦神社&神倉三宝荒神社で、神倉神社に参拝するにはこれらの神社の左手にある朱塗りの鳥居をくぐり、自然石を組み合わせて積み重ねた鎌倉積みの急勾配の石段を登らなければなりません。初めての人には恐怖感が走るほどの急勾配で、高所恐怖症の人は足がすくんで登れないかもしれません。遠回りですが別のなだらかなルートもありますので、現地の人に聞いてください。特に降りてくる時、上から下を見ると足がすくみます。538段の石段は、10分くらいあれば登れますが、急なところは上り口から「中の地蔵」までの二百段まで。そこまで登り切れば、後は緩やか。ここで、別のルートと合流します。この石段は、源平合戦における熊野の功労を讃えて、1193年に源頼朝が寄進したと伝えられています。

石段を登り切ったところに鳥居があり、その向こうに一枚岩の岩盤の上に数個の巨岩が鎮座していて、その巨岩群が神倉神社の御神体のゴトビキ岩です。ゴトビキ岩の横に小さな社殿が設けられ、高倉下命(タカクラジノミコト)と天照大神が祭られていますが、自然崇拝であった原始宗教の時代は、この巨岩群そのものが神として崇拝されました。

神倉神社の祭神である高倉下命は、『古事記』や『日本書紀』にも出て来る人物です。神武天皇は最初、日向の高千穂の宮におられましたが、兄とともに東方に都を造ろうとして大和に向かいますが、大和の豪族の迎撃に遭って撤退。このとき兄が討ち死にしています。神武天皇はこの敗戦を、自分が天照大神の子孫であるのに太陽に向かって戦ったからであると分析し、次は、熊野から北上して大和に侵入することにします。一行が船で熊野の海岸に上陸し、熊野の村にやってくると、大きな熊が現れます。すると、彼も軍隊もみな意識不明に陥って倒れてしまいます。これを見ていた天照大御神と高木神とが建御雷神が相談して霊剣「ふつのみたま」を外界におろし、霊夢を通して高倉下にこの横刀(たち)を神武天皇に献上せよと命令します。夢から覚めた高倉下が、横刀を神武天皇に献上したところ、天皇はたちまち目覚めて、その熊野の山の荒ぶる神は倒され、気を失って倒れていた軍隊もことごとく目覚めたそうです。(この刀は現在、奈良県の石上神宮に奉納されています。)やがて、蘇った神武軍は熊野から吉野のへと、八咫烏に先導されて進軍して行ったとのことです。

那智大滝


那智大滝(なちのおおたき)は、通常、「那智の滝」または「一の滝」ともいわれ、落差が 133m、滝の落ち口の幅は13m、滝壺の深さは10mの日本一の直瀑です。滝の落ち口の岩盤に3つの切れ目があって、3本になって滝が落ちることから「三筋の滝」ともいわれます。滝の東側には国の天然記念物に指定されていて「那智原始林」と呼ばれる照葉樹の原生林が広がっています。那智山中には「那智四十八滝」といって48の滝があり、修験者により滝行が行われてきましたが、那智大滝のすぐ上には、「二の滝」「三の滝」と呼ばれる滝があり、二の滝は落差20mほどの優美な滝で「如意輪の滝」ともいわれ、かつて花山法皇は、この二の滝の近くで千日の修行を行いました。また、平清盛、後白河上皇、西行などもこの二の滝を訪れています。この上流にある三の滝の落差は15mほどで「馬頭観音の滝」ともいわれています。

熊野那智大社

熊野那智大社は滝を神とする自然崇拝からおこった神社です。社伝には、神武天皇が熊野灘から那智の海岸に上陸されたとき、那智の山中に光を見て、この大滝を発見し、神として祀ったとあるそうですが、神武東征以前から熊野の原住民が神として敬っていたと思われます。大滝には現在、「熊野那智大社別宮飛瀧神社」があり、ここには本殿も拝殿もなく、滝を直接拝むことによって御神体の大己貴命(おおなむじのみこと)は拝まれ、かつての自然崇拝の形をよくとどめています。大己貴命の本地仏は千手観音だと考えられ、飛瀧権現(ひろうごんげん)と呼ばれていて、かつては那智大滝の岩壁にはこの千手観音の磨崖仏が彫られていて、大滝近くには千手堂が建っていたそうです。今日でも、この滝の中に観音様の像が現れたという証言をする人が少なからずいるようです。経塚は、仏法が滅んだ後の世のために経典や仏像を地中に埋納し、弥勒菩薩が出現する五十六億七千万年後まで保存するために造られた仏教遺跡ですが、那智大滝にいたる参道脇には平安末期以降、数多くの経塚が営まれました。大正年間に発掘された那智経塚からは、平安から鎌倉、室町に埋納された2000点ほどに及ぶ仏教遺物が出土し、日本三大経塚(乗鞍・高野・那智)の一つとされるほど大規模な経塚でした。一部の出土品は熊野那智大社の宝物殿にて公開されています。

青岸渡寺&熊野那智大社へは、参道の石段を10分ほど登ると行き着きます。標高約 500mにある那智大社および青岸渡寺に行く途中、参道はふたつに分かれ、左の大鳥居をくぐると熊野那智大社、右の道を行くと仁王門を経て青岸渡寺にたどりつきますが、この二つは隣接して建っていますので、どちらの道を進んでも変わりはありません。

那智山本堂

那智熊野大社は古くは「那智山熊野権現」「那智権現」、那智山青岸渡寺は「如意輪堂」と呼ばれ、那智権現は最盛期には7寺36坊を有し、熊野修験の一大本拠地となっていました。かつての那智は神仏混合でしたが、明治の神仏分離令のとき、本宮も新宮も仏教を捨てて神を選び、那智でも一時は神を選んで廃仏毀釈を行い、熊野那智神社が発足しましたが、その後、山内の人々の願により明治7年(1874)、如意輪堂が神社側から独立し、青岸渡寺と名付けられ、天台宗の一寺として再興されました。西国三十三所霊場の第一番札所でもある青岸渡寺(如意輪堂)の創建は、仏教伝来以前にインドから熊野に漂着した裸形上人(らぎょうしょうにん)が那智大滝に打たれていたとき、滝壷から約24cmの観音像を感得し、これを安置したのが始まりと伝えられています。その後、7世紀頃に大和国から生仏という僧が来て、およそ3mの木彫りの如意輪観音様を彫り、裸形上人が得た観音像を胸に納めて本尊とし、正式に本堂が建立されました。如意輪堂は、その後、織田信長の焼き討ちに遭いますが、青岸渡寺の現在の本堂は、豊臣秀吉が1590年に再建した桃山様式の建築で南紀最古の建築物であり、重要文化財に指定されています。

那智大社は、左の一棟八殿と正面の五棟五殿の併せて十三殿が、地形的な制約のためカギ形に配置されています。正面向かって右手が第一殿、左端が第五殿で、左側にあるのが八社相殿の第六殿です。第一殿には、大滝の神の大己貴命(千手観音または飛瀧権現)がまつられていて、第二殿以下に熊野十二所権現がまつられています。また、熊野那智大社の主神は、正面向かって左から二番目の第四殿に鎮座している熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)で、いざなみのみことと同体とされます。昔は那智大滝の近くの那智経塚の近くに社殿があったものが、317年に現在地に遷されたと伝えられていて、平重盛が造営奉行となって社殿を整え、樹齢約850年と推定される樟の大木も、彼が植えたとされています。その後,織田信長の焼き討ちにあった後、豊臣秀吉が再興し、1853年に大改修が行われたそうです。境内にあるこの樟は、参拝者に聖なるエネルギーを投げかけていて、また、根元の幹には人が通れるほどの洞があります。「那智の火祭」は、滝を表す高さ6mの細長い神輿を大松明の炎で浄めるもので、和歌山県の無形民俗文化財に指定されています。

那智原生林

那智原始林は、那智大滝の東部に広がる約32ヘクタールの照葉樹林で、温帯性と暖温帯性の動植物が見られ、古くから熊野那智大社の神域として立入ることや樹木を伐採することが禁止されて保存されてきた森林で、聖域にというにふさわしい波動が満ちています。入るのには、熊野那智大社の許可が必要です。

徐福公園は、JR新宮駅から東に200mほどの所にあり、一際目立つ中国風の楼門を持ち、現在のような形になったのは平成6年(1994)のことで、「徐福の墓」を中心として開発された公園です。ここに、徐福が探し求めた不老長寿の霊薬と伝えられている天台烏薬のお茶、果実酒、入浴剤などが売られていますが、近年この薬には肺がん対する薬効があるとの報告もあります。

徐福は、紀元前3世紀の中国・秦(しん)の始皇帝に仕えた方士(神仙思想の行者)で、いまから2200年くらい前、始皇帝の命を受けて、東方海上に不老不死の仙薬を求めて三千人の少年年少女とさまざまな分野の技術者達を引き連れて船出し、この熊野に上陸したと伝えられています。多数ある日本の徐福渡来伝承地のうちで、中国側で最も一般的だったのが熊野の地のようです。